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【にほんごであそぼ】9月6日(木) 李下に冠を正さず・百人一首 藤原定家(97番)

私も佑くんも大好きな番組、Eテレ「にほんごであそぼ」の視聴レポート。

その日の見どころを取り上げます。

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李下に冠を正さず

dic.nicovideo.jp

 瓜田に履を納れず(カデンにクツをイれず)と対になった故事成語です。

バァバは、気が付いた時、既に李下にいることが多いのです。

で、つい手を挙げてしまいたくなる・・・どうしたもんだか。

文楽

狸がスモモの木の下で葉っぱを頭の上に乗せてみたり、とってみたり。

― スモモ欲しいんじゃないよ、葉っぱ頭にのっけてるだけだよ

大夫の 竹本織太夫さん、熱演です。

「李下に冠を正さず!!!」

一喝された狸、参りましたとばかり、葉っぱをとってしょんぼり。

うんうん、スモモおいしそうだもんね。

 

 

絵合わせ百人一首 権中納言定家(97番) 

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ

 権中納言定家(97番) 『新勅撰集』巻13・恋3・849

 

【意味】
来ない人を待つ、その松帆の浦の夕なぎの時に焼く藻塩のように、わが身は恋心に焦がれている。
【解説】
”まつほの浦”:淡路島の北端、明石海峡を隔てて明石と対する場所。
”夕なぎ”:夕凪。夕方、海の風も波もなくなること。
”藻塩”:海藻に海水をかけて、その海藻を焼いて水に溶かし、上澄みを煮詰めて作った塩のこと。

この歌は健保四年(一二一六年)に行われた「内裏歌合」で詠まれました。
作者は権中納言定家。藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)として知られる鎌倉時代初期の歌人・公家で、小倉百人一首の撰者です。藤原俊成(83番歌)の子です。56年間書き続けた日記「明月記」も有名です。

https://shikinobi.com/hyakuninisshu/4#097

 

小倉百人一首の撰者、定家がいよいよ登場しました。

小倉とは、京都嵯峨の小倉山荘の障子に張ったと伝えるところからこの名があります。

 実はこの一首は500年前の作られ、万葉集に残されていた長歌に対する返歌なのです。これを本歌取りといい、対象の歌とあわせて詠むことでより深く意味を知ることができるのです。オリジナルは以下の歌です。

名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名藝尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩焼乍 海末通女 有跡者雖聞 見尓将去 餘四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 俳徊 吾者衣戀流 船梶雄名  作者:笠金村

万葉集は平仮名ができる前のものですので、漢字をカナ代わりに使っており非常にわかりにくいものです。ここでは4ブロック目から「松帆の浦に 朝なぎに 玉藻苅つつ 暮なずに 藻塩やきつつ」に注目してください。この歌の内容がそのままかかれています。この歌は「淡路島の松帆の浦で藻塩を作っている海女がいると聞いたが、船も舵もないので会いに行くことができない」というまだ見ぬ女性に興味を示している男性の様子を描いています。これに対する返歌として、「私もあなたを待っています」という内容の歌をオリジナルの歌の単語をきちんと使って、上記の技法を使いこなしているんです。
500年越のラブレターの返事というのもオツなものですが、この一首を作るためには万葉集をしっかり読み込んで理解していないといけないわけで藤原定家の和歌に対する造詣の深さを知ることができます。

https://yoshidasts.blogspot.com/2015/05/blog-post.html

和歌の家に生まれた定家でしたが、天才型に多い直情タイプの性格で血の気が多く、宮中で暴行事件、官職から一時追放されるという騒動を起こしています。

平家が壇ノ浦で滅亡し、天下は大混乱、

しかし彼は自分の日記「明月記」で言い切ります。

「 世上の乱逆・追討、耳に満つといえどもこれを注せず。紅旗征戎コウキセイジュウ 吾が事にあらず。」

― 世間で行われている謀反・追討の情報はいやでも耳に入ってくるが、書きとめないでおく。大義名分をもった戦争であろうと(所詮野蛮なことで芸術を職業とする身の)自分には関係のないことである。

当時19歳とされている定家の若々しい気概と、武家社会到来の予感への反発が感じられます。

 

歌の道に精進を重ねた定家は、後鳥羽上皇から「新古今和歌集」の編纂を任されますが、自分の意見を曲げず上皇と争い、謹慎処分を受けてしまいます。

しかし、承久の乱で上皇は島流しに。

その後、後堀川天皇の新勅撰和歌集の編纂を命じられますが、罪人である後鳥羽上皇の歌を入れることはかないませんでした。

衝突はしたものの、互いに和歌への情熱とその才を認め合った二人です。

私的に編纂した「小倉百人一首」で、後鳥羽院とその子の順徳院の歌を加え、院をしのびオマージュをささげています。

71歳で官位を辞して出家、百人一首の編纂時には75歳、当時の人としては長寿であり、越し方に深い感慨を覚えてもいたのでしょう。

後鳥羽院と順徳院の歌を加えた定家。

院と歌の道で争った若き日が再びよぎり、出家の身で明日をも知れぬ年齢を考えれば、院への思いを何とか昇華したかったことと思います。

 

明月記

話は百人一首からそれていきますが、撰者定家についてのあれこれを書き綴りますので、今しばらくお付き合い願います。

 

明月記とは藤原定家の日記で、治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録です。

儀式や公事の作法・判断の典拠として日記に記された先例故実を求めるようになり、そうした日記を多く所持していた家系が、それを理由として先例故実の家柄として公家社会において重要視されるようになった。

日記の家 - Wikipedia

政治的な要職には恵まれなかった定家は、『明月記』の中に自らが体験し収集した知識を多く書き残して、自身あるいは子孫が「日記の家」として重んじられることを期待していたと見られている。

定家子孫で唯一存続した冷泉家とともに『明月記』のかなりの部分が伝存されたものの、その冷泉家においても、『明月記』は歌道・書道の家の家宝とされた。

歌道の家となった御子左流に、公事の書としての『明月記』は活用の余地が低いものであった。

皮肉なことに、定家の歌道・書道における名声ゆえに、定家が子孫に伝えたかった有職故実については顧みられることがほとんど無かったのである。

明月記 - Wikipedia より抜粋編集

 しかし定家が残した克明な記録は、歌道の書としての価値以外に、後世に様々な事象を伝えることになります。

自身や同僚の近衛次将の装束は勿論のこと、随身の装束の文様に至るまで、執拗ともいえる詳細な装束に関する記述

歌壇の動きや詠歌事情、『新古今集』撰修(せんしゅう)の実状

晩年に多くの古典書写をしたその実態

鎌倉初期の公家(くげ)の政争や生活、ときには庶民社会にまでその筆は及びます。

なかでも、多数の天文現象が載っていることは特筆すべきでしょう。

 

明月記と天文現象

「客星」とは「ふだん見慣れない星」を意味するもので、超新星や新星、彗星などが含まれる。

『明月記』に「客星」の記録が最初に登場するのは、寛喜二年十一月一日条(1230年12月6日。この時の「客星」の正体は彗星で、同四日条には定家による「この星朧々として光薄し。その勢い小にあらず」という観察が記されており、このほか日記中には不安を覚えた当時の人々の反応も記載されている。

この「客星」に触発された定家は、十一月二日に家に出入りしていた陰陽師の安倍泰俊(陰陽寮漏刻博士)に、過去の客星の出現例を問い合わせ八日に、泰俊は記録されていた過去の客星出現の記録8例のリストを報告書として定家に提出しており、定家は同日の日記の末尾に、この報告書を挟み込んだ。

この8例のうち、以下の3例が超新星の記録である。

明月記の記載(旧暦)・ユリウス暦・超新星名・発生星座・超新星残骸
寛弘三年四月二日  1006年5月1日  SN 1006 おおかみ座 PKS 1459-41
天喜二年四月中旬以後  1054年 SN 1054  おうし座 かに星雲 (M1)
治承五年六月二五日  1181年8月7日 SN 1181  カシオペヤ座 3C 58

明月記 - Wikipedia より抜粋編集

 

超新星とは「新しく生まれた星」ではなく「新たに見えた星」で,それまで全く見えなかったところに突如として星が輝き出し,一夜にして10等級以上も明る くなります。

実は星の最期の大爆発で,星の生涯のうち最も劇的なシーンです。 望遠鏡のない時代の超新星の記録は世界で7件しかなく、そのうち3件も記載がある本は『明月記』だけです。

明月記の1054年の客星出現記録は世界で初めて歴史に記録された超新星として認められました。日本の他には中国、アラビアの記録はありますが、欧 米からは一例も見つかっていません。
すべて定家が晩年になってから、陰陽師・安倍泰俊(やすとし)から聞いた古い記録を書きとめたもので、わが国の陰陽師の記録はスゴイといえます。

明月記と超新星 藤原定家が残した世界に誇る天体記録とは | 京都千年天文街道

 

「赤気」は、空に現れた赤い光を意味する表現で、オーロラを示している[9]。建仁四年正月十九日(1204年2月21日)条および同月廿一日(2月23日)条には、京都で定家が「赤気」を見たことを記録し、恐れを抱いたことを残している。

国立極地研究所・国文学研究資料館・京都大学などの研究グループは、西暦1200年ごろには地軸の傾きの関係から日本でオーロラが観測しやすい条件にあり、この時期の活発な太陽活動(太陽変動における「中世極大期」にあたる)によって連発巨大磁気嵐が発生した結果、京都(北緯35度)のような低緯度でもはっきりしたオーロラが観測できたことを説明している

明月記 - Wikipedia より抜粋編集

当時、見慣れぬ天体現象(天変)は不吉の前兆であると考えられていました。

客星を見た定家は過去の記録を陰陽師から取り寄せ、受けとった報告書そのものを日記に挟み込んで「ファイル」しました。

明月記にかける、定家の並々ならぬ思い入れが感じられる行いです。

正確に記録していた陰陽師もすごいけど。

また、定家の記述は、太陽活動の変動に関する研究に大きく貢献しています。

特に現代では、太陽活動が激しくなり磁気嵐が発生することで、地上では大規模な停電、宇宙では人工衛星の故障を引き起こすといった実被害に結びつく危険性があり、「宇宙災害」という言葉も生まれています。

将来起こりうる最悪の宇宙環境を理解・予測し、「宇宙災害」への具体的な対策を立てる必要があります。

『明月記』と『宋史』の記述から、平安・鎌倉時代における連発巨大磁気嵐の発生パターンを解明│研究成果│国立極地研究所

より抜粋編集

 

冷泉家・時雨亭文庫

「和歌の家」冷泉家は、藤原定家の孫・冷泉為相を初代とし、藤原道長の流れをくむ公家の家系である。

道長の6男・藤原長家を祖とする御子左家(みこひだりけ)は、勅撰和歌集の撰者であった藤原俊成・定家以来、和歌の家としての格式をもっていた。

その後、三家に分かれるが、俊成・定家の血統を伝えるのは冷泉家のみとなった。

冷泉家伝来の古書を収めていた土蔵「御文庫」(おぶんこ)は、屋敷内でも神聖な場所とされ、現在も当主と嫡男以外は立ち入ることが許されていない。

長らく非公開とされ、一般にその存在が知られるようになったのは1980年(昭和55年)より平安博物館(現京都文化博物館)によって冷泉家所蔵本の整理・目録作成が始められてからである。

冷泉家所蔵本は、俊成・定家の自筆本や、定家の自筆日記『明月記』をはじめ、日本文学や日本中世史の研究上、貴重な資料の宝庫である。

また、冷泉家住宅は近世以前の公家住宅の現存唯一の遺構として貴重なものである。

こうした有形文化財に加え、歌会、乞巧奠(きっこうてん、七夕)のような昔ながらの年中行事や和歌の家としての伝統を保持するため、1981年(昭和56年)に財団法人冷泉家時雨亭文庫が設立され、24代当主冷泉為任が初代理事長となった

財団名の「時雨亭」は、定家が京都の嵯峨に構えた山荘の名である

冷泉家時雨亭文庫 - Wikipedia より抜粋編集

1980年(昭和55年)、御文庫が開かれ、大切に保管されてきた、国宝5件・重要文化財48件を含む平安後期以降の約2万点ともいわれる膨大な古典籍や文書が、次々と我々の前に姿を現してくれました。

その時の報道、今でも覚えています。 

現理事長は、第25代当主冷泉為人氏(日本美術史家)で、24代息女貴美子氏と結婚され、旧華族で伯爵家の上冷泉家を継がれています。

以前「週刊朝日」にされていた「夏目房之介の【学問】」で、冷泉流歌道の継承者・貴美子氏が紹介されましたが、下記のところだけ思い出されます。

「小学校の遠足でねぇ、おやつによその人は普通に販売されているようなお菓子を持って来はったけど、うちは「虎屋」の羊羹をもたされて、嫌でしたゎ」

まだ為人氏とご結婚なさる前だったと思うので、京都に現存する最古の公家屋敷にお住まいのおひい様を伺う、といった内容でした。

(房之介氏は漱石の孫で、漫画家・エッセイスト)

貴美子氏が主宰する、乞巧奠(きっこうてん、七夕)の昔ながらの様子を、テレビで拝見したこともあります。

紙燭のほの暗い灯りのもとで、十二単の装束をお召しになられ、現存する最古の公家屋敷の中で典雅にも厳かにとりおこなわていました。

このお屋敷ですが、為人氏はこのように語られています。

京都御所の留守居役を仰せつかっていたこともあるが、京都から動こうとしなかったのは、冷泉家の家訓となっている定家の『明月記』にある「紅旗征戎わがことにあらず」という、文字通り、いわゆる権力争いに加わるな。和歌を詠む家、文学に専心しなさいということがあったのであろうと、考える。伝えるべきものを伝える、これに徹しきれば残れるのではないかと思っていると為人氏は話された。「一流の二流」であること。冷泉家は、御子左家の中で一格下であったことで、権力争いに巻き込まれなかった。公家の家格でも、どうしても天皇と共に江戸へ行かなければならない上位の格ではなかった。これらが冷泉家が守るべきものを守り続けるために功を奏したわけである。「一流の二流」であることは、ものを伝えていく時には重要だと思っている。

第1回 - 冷泉家の歴史と文化 | モリサワ文字文化フォーラム | 文字の手帖 | 株式会社モリサワ 

 

御文庫を擁する上冷泉家が京都に残った事で、結果として膨大な典籍は関東大震災と東京大空襲による被害を免れたわけです。

時雨亭文庫と冷泉家お屋敷は、まさに至宝、時空を超えるタイムカプセル。

私のような市井のおばちゃんにも、その恩恵は届けられているのです。

 

今日は話題が随分と拡がってしまい、下手な古典のレポートか!!  とツッコミが入りそうですが、小倉百人一首の撰者・定家に免じてお許しの程を。

 

May this small seed sprout in your field.
See you.