nanaとボンちゃんとお花

孫のボンちゃんはMR +ASD傾向、バァバはASD+うつ病、ママはADHD+双極性Ⅱ型.冬季うつ、の発達凸凹家族です

ママは ADHD(注意欠如多動性障害) ー ② 子ども時代

f:id:nana-plant51:20181002132110j:plain

 発達障害 ADHD(注意欠如多動性障害)と診断されているママ。

私の長女です。

 

今、思えば、ADHDの特性は子どもl時代から現れていました。

振り返ってみます。

 

乳幼児のころ

・いわゆるカンの強い子で、よく泣き、あまりミルクも飲まず、眠りが浅く、新米の母親はすっかり参ってしまいました。

 ・抱っこしたまま一緒に眠ろうとしても、嫌がって、一人でお布団にころがっていました。

 ・運動機能の発達はごく普通でした。

 ・歩き始めると手をつなぐのを嫌がり、チョロチョロするので追いかけるのが大変でした。

 ・ベビーカーに乗るのも嫌がり、自分で自分のベビーカーの後ろを押しながら、好きなように歩きたがりました。

 

 

幼稚園に3年保育で入園

・入園式でじっとしていられず、園庭のブランコに一目散だったので、式の間ずっと先生に抱っこされていました。

 ・初めての母の日のお絵かき、壁に掲示されていたのは、まるで意味のない殴り書き。他の子は、マルなどで顔らしきものを描いていました。母は泣きそうになりました。

 ・絵本の読み聞かせをしようとしても、ほとんど興味を示してくれませんでした。

 ・ごっこ遊び(おままごとやお人形)は、全くやらず、シルバニアファミリーのおうち一式は、ただのインテリアとなりました。

 ・自分自身のことはほっといて、他の子のお世話ばかりしていました。

・妹のことは、よくかわいがっていました。

 

 

小学校に入学

・アトピーがひどくなり、母は対策に追われました。一応おさまったのは、中学生になってからです。

・入院するほどではなかったのですが、よく病気をし、学校は休みがちでした。

・読み書きに難があるようにはみえなかったのですが、成績はあまりよくありませんでした。

・自宅の学習机にすわっていても、気が付けば、引出しの整理ばかりしていました。

・ピアノを習っていましたが、譜面を読まず、先生のお手本を耳で覚えて弾いていたようです。途中でそれに気づき、譜面を読むことを、もう一度易しい曲からやり直しました。本人は、イヤイヤ習っていたそうです。

・四年生くらいからスイミングをはじめ、徐々に体力がついてきました。

・原因が自分では思い当たらないのに、いじめにあっていたそうです。

 

 

中学校に入学

・相変わらず学校は休みがちでした。

    微熱が続き、首にリンパ節が腫れました。

・アトピーが軽快してきたので、友達に誘われて二年生から運動部に入りました。

・その後は、少し健康体になりました。

・イラスト、マンガを描く事に熱中し、トーンやコピックを使い、画材にも凝っていました。

・相変わらず、いじめはあったようです。

・中学三年生のとき、公立高校は地域で二番目に偏差値の低いところくらいしか行けない、と言われました。

・とにかく元気で学校に行ってくれればよいとの思いで、それまで学習塾にもいっていなかったので、慌てて家庭教師をお願いしました。

・高校受験は、受験科目が3教科しかない私立高校をねらい、なんとか合格しました。

 

 

高校に入学

 ・引き続き、家庭教師の先生をお願いしていたので、勉強はなんとかなったようです

・作文はもともと苦手だったのですが、それだけは徹底して母が指導しました。

    まずWordで娘が自分なりの文章を打ちます。

    その後、母が横につきっきりで付け足しや切り貼りの指示をして手直し、それを娘が手書きで清書。

   繰り返すうち、手書きで書き始めても、何とか様になる文章が書けるようになりました、

・友達にさそわれて、人権問題を考えるクラブに入部。

    顧問の先生には、本当にお世話になりました。

・進路を考えるにあたり、一般受験は負担が大きすぎて無理と判断

    推薦入学で行ける大学の教育学部に進みました

 

子どもの思いと母の思い

この記事を書くにあたり、子ども時代のことを娘と話しました。

 

「あの時、本当は〇〇と思ってたのに、きいてくれなかった」

 

このフレーズが、いやというほど出てきて、母は

「ごめん・・・」

と言うしかありませんでした。

 

今思うと、私のADHDやASDの特性全開で、

「こうあるべき」が強すぎ、

子供の気持ちを汲み取ることができなかった、しようとも思わなかった、と思います。

 

また、その頃家計がひっ迫し、節約に追われ、

「ほしい」と言われたものでも

「ダメ」の一言で却下。

 

駄々でもこねようものなら、

般若の形相で叱り、時には体罰も。

 

仕事に慣れるのに必死で、更に義両親との同居・主人との不和。

自分のことに精一杯。

更に、長女のアトピー対策に疲れ切っていました。

そんなこんなで、私の二次障害であるうつ病も悪化しました。

 

でも、そんなことは言い訳ですね。

母として、一人の人間として、失格でした。

 

できるものなら、もう一度やり直したい・・・

 

May this small seed sprout in your field.
See you. 
 
過去記事はこちら