白い夾竹桃
高速道路の高架下・幹線道路脇で、白い夾竹桃が延々と連なり、満開に咲き誇っている。
乾燥や大気汚染に強く、痩せ地でも育つので、街路樹として多用されているらしい。
赤花は少し暑苦しい感じだが、白花の夾竹桃がこれだけ視界いっぱいに入ると、たいそう清しく感じる。
そして、夾竹桃を見ると、私の脳内で自動再生される歌がある。
♪ 夏に咲く花 夾竹桃 戦争終えたその日から………
「夾竹桃のうた」 夾竹桃のうた/うたごえサークルおけら
私の世代の広島県人なら、誰でも覚えているのではないか。
小学生から歌っていたように思う。
「75年は草木も生えぬ」と言われた広島原爆投下後の焼け跡に、いち早く咲いたのがこの夾竹桃。
強い花だ。
広島市の市花である。
75年の根拠は何だったのか知らないが。
思えば、広島県人にとってまだまだ「原爆」が身近に感じられていた時代に、多感な時期を過ごした。
被爆二世三世の同級生は珍しくなかったし、
高校時代の恩師は、旧制中学校時代に強制疎開労働先で被爆され、定年後間も無くガンで亡くなられた。
広島県の平和教育
広島県の小中・県立高等学校では、8月6日は一斉登校日。
いわゆる平和教育が行われた。
原爆の悲惨さが伝えられ、意見交換がなされる。
全校集会で黙祷する。
「夾竹桃」 の歌を歌った。
この歌は割と明るい曲調なので、小学生でも歌えたのではないか。
「原爆の子」の銅像のモデル、佐々木貞子さんの話を教わった。
小学校の遠足で、バスに乗って原爆資料館を訪れた。
私の感性はまだ幼く、展示物を見てはその怖さに友達とワーワー騒ぎ合っていた。
中学生になると、暗く重々しい曲調の「原爆を許すまじ」も歌った。
夏休みのリーダー翻訳の宿題には、被爆者の手記が出される。
二学期、その訳を(できた範囲内ではあるが)、クラスで順に発表した。
1975年、被爆30年を機に、NHK広島放送局が呼び掛け、被爆者自身による原爆被災の絵が集められた。
約2200枚。
原爆体験の風化が被爆者自身にも懸念されたのか、重い心の扉が開けられた。
夕方、七時前のNHKローカルニュースで、毎日1枚ずつ紹介される。
どの絵にも、上手下手ではない、体験者のみが描くことのできる迫力と、経験を伝えたいという強い想いが感じられた。
あの時、私は高校生だった。
夏期の甲子園野球大会では、広島県のチームは8月6日午前8時15分、黙祷を行う。
今年の甲子園大会は、コロナ禍の中、どうなるのだろう。
私は、今年もテレビで平和記念式典を見ながら、黙祷するだろう。
オリンピックは終わっているはずだ。
国民の無辜の命より、国家の体面と賠償金を重んじるこの国に、どんな未来が待っているのだろう。
コロナ禍が収束した時、人々の死生観は変わっているのだろうか。
See you.