原爆忌ルルドの水の生温し
荒井 千佐代 2011年 俳句雑誌 空
怒りの広島、祈りの長崎
二つの被曝地の地域性は全く異なり、それ故被爆死の捉え方と平和運動のあり方も大きく異なってきた。
なぜ「祈り」なのか、 そんな事を考えながら調べてみた。
長崎とカトリック
冒頭の俳句の作者、荒井千佐代さんは長崎市の出身、俳句にもカトリックの信仰に寄せたものが見られる。
十字架のイエスが踏絵ふめといふ
夏期講座イエスの系図より説かる
絵硝子の天使飛び立つ初日かな ー 朝日俳句新人賞受賞
長崎には、フランスのルルドを模した多くの湧水があるという。
そこから持ち帰った聖水と炎暑、そしてあの日の灼熱を詠った句であろうか、と想像してみる。
世界遺産
2000年近くに及ぶキリスト教文化とその遺産を持つ人たちから見れば、
「日本にしか見られないキリスト教文化の特徴」は「200年を越えた国を挙げての徹底した禁教時代に、それでも信仰を守り続けた潜伏キリシタンという凄まじい土俗の力」にしかないのである。
世界で共有できる独特の遺産は、おそらくその「精神性」にある。
ただ日本人は、あまりそういうことを想像しない。
一部の人をのぞき、日本でのキリスト教の活動に、あまり興味を持っていないようにおもう。
キリスト教施設は、いつも「エキゾチックでロマンチックで荘厳」という気分で捉えられている。
日本にとって、どこまでもキリスト教文化は異文化である。
かくいう私もその一人であり、浄土真宗門徒でありながら住吉大社を奉じ、中学の修学旅行で求めた「長崎のマリア」と記された小さな石膏像を今も大切にしている。
八百万の神の地、日本の民である。
永井隆博士の 燔祭説
連ドラ「エール」にも、「長崎の鐘」が生まれるまでのエピソードがあった。
その永井博士が説いたのが「原爆燔祭(はんさい)説」、
「祈りの長崎」のイメージを象徴するような説である。
しかしながら、非常に意義深い論文を見つけた。
興味を持たれた方は、ご一読願いたい。
【永井隆はなぜ原爆死が神の摂理だと強調したのか?「ケガレ」から考える試み】2011年
浦上地区カトリックの人々
以下は、前記論文からの要約・抜粋である。
浦上地区カトリックの人々は、二重の差別に苦しんでいた。
・キリシタンの浦上山里村は、[諏訪神社の祭礼である]おくんちにいろいろな出し物をだす踊り町ではないし、お賽銭をあげにもこない。長いキリシタン禁圧の歴史のなかで、旧市街の人びとは浦上の人びとを「クロシュウ」とか「クロ」と呼ぶようになり、中心部の住民から差別される存在であった。
・浦上天主堂 はかつての禁教期、毎年正月に絵踏が行われた 庄屋屋敷跡、つまりキリシタン系の人々にとって先祖の苦難を象徴する地に建てられたもので ある。その頭上に、キリスト教が支配的宗教である米国が原爆を落とし、浦上地区の被害は甚大なものであった。このことは、原爆による被害が相対的に軽かった長崎市中心部住民による、信徒への差別強化をもたらした。
このように苦しんでいる人々を救ったのが、永井博士の原爆燔祭説であった。
原燥死を、ケガレ意識のない良き時代を開く尊い礎ととらえたからこそ、永井博士はこの犠牲を神の摂理によるものと考えたのであった。
それゆえ彼は原燥死を「潔し」「汚れなし」と 謳いあげ、絵や短歌で徹底的に美化したのであった。
しかしこの説は、戦争遂行と原燥投下を免罪したという否定的評価と、信仰の論理からみて当然だという肯定的評価のあいだの論争を引き起こした。
これを総括して【長崎新聞】は、「永井を通じて社会や思想の多面的な考察を」と呼びかける。
この研究はそれを受けて、論争を考える鍵が日本人のケガレ意識にあると考え、日本社会の根本問題として捉えることを訴える。
きょうの種 
・色々な資料がクリック一つで手に入る、良き時代になりました、
・永井博士の訴えには、「科学の進歩」に対する明るい礼賛が裏打ちされています。
・様々な資料を漁りつつ、考え祈った長崎原爆忌の一日でした。
May this small seed sproud in your field.
See you.