電話のない時代
私の幼少期、イエ電がある家庭は限られていた。
お持ちなのは、お商売家さんやお金持ち、一般家庭ではなかなか手が届かない時代だった。
緊急連絡は電報か、ご近所のクリーニング屋さん。
私の祖父(例の娘Loveの人)の危篤の報は、クリーニンング屋さんが大急ぎで取り次ぎに来てくださった。
黒電話設置
電話加入権は、当時施設設置負担金という名称で、1968年には3万円かかっている。
我が家に黒電話が来たのは、それくらいではなかったか。
当時の物価は、
大卒公務員初任給 ¥25,302
高卒公務員初任給¥18,468
牛乳¥21・かけそば¥70
銭湯¥35・喫茶店コーヒー¥100
新聞購読料¥580・映画館¥500
まぁ、贅沢品だったわけだ。
黒電話の基本料金¥700
市内通話1度数¥7(1度数が何分だったのか調べきれていない)
東京〜大阪4秒¥7
夜の方が料金が安かった記憶がある。
FAX設置
グランマが耳が不自由になったときに備え、FAXを設置した。
当時、グランマ75歳くらいだったと思う。
あまり歳をとってしまうと、使用方法が覚えられないと思って設置した。
だが、ほとんど使うことなく過ごす。
グランマ、ガラケーでメールを打つ
グランマがガラケーを購入したのは、80歳。
詳細な説明書を画像入りで私が手作り、イエ電で説明しながら片手にはガラケー、何度も練習。
その甲斐あって、傘寿にしてメールでの遣り取りができるようになる。
90歳ごろまでは、メールを打っていた。
誤変換は「直すんがめんどくさいんじゃ、まぁ、通じるじゃろ?」
とのたまいながら。
デイサービスの機関紙に投稿する俳句の添削を、よく頼んできた。
一番私が気に入っているのは、この冬の句
「大屋根にふくら雀が二羽三羽」
3g終了に伴い機種変
今年になってやっと機種変した。
2022年3月で3gが終了になるのだが、機種変とグランマの旅立ちと、どちらが早いか分からず放置。
今年になって、無料機種のお知らせがあり、変更。
操作画面は、今までとほとんど変わらない。
現在の、グランマとガラケー
去年くらいまでは何とかメールを打ってくれていたが、今年に入ってメールを打つことは出来なくなった。
耳が遠くなってきて昨年から補聴器を使用していたが、電話では聞き取りにくく苦労した。
機種変してからは「はっきり聞こえる」設定がうまくいって、楽に会話している。
機器の進歩のおかげ。
電話で姉妹喧嘩しては、泣きながら私に電話してくる。
相手も認知症なので、昔の有る事無い事引っ張り出して、喧嘩になる。
とうとう、番号登録は① ② ③ のみ、私とママとママの弟に設定した。
こちらから電話をかけると、グランマは焦ってうまく通話ボタンが押せない。
老眼メガネが必要なので、まずそれを探すことから始めるから。
だから、グランマがかけてくるまでは、私は電話をかけない。
必要事項は、特養のケアマネさんと相談して決めている。
手元の携帯で電話をすれば、いつでも私と話ができるというのは、母の心の支えのようだ。
こちらは毎度同じ愚痴を聞かされて、少々閉口しているのだが、仕方がない。
お喋りをしたり、身の回りの細々とした世話や、散歩に連れ出したりする事、そんなことが出来ない親不幸な娘なので、
せめて電話くらいは相手しなくてはならないのだ。
See you.